杉並区 02 (04/12/23) 旧井荻町 (井荻村) 旧下井草村 (1) 井草前

旧下井草村小名 井草前 (いぐさまえ 小字向井草) 

下井草町 [現 下井草ニ丁目北半分、下井草三丁目北半分、下井草四丁目の一部]

  • 旧早稲田通り (所沢道)
  • 三峯神社
  • 屋敷林
  • 田中家長屋門
  • 向井公園
  • 井草の名灸
  • 庚申塔 (65番)
  • 遅野井道
  • 地蔵堂 (63番)

向井町 [現 下井草ニ丁目南半分、下井草三丁目南半分、下井草一丁目の一部、下井草四丁目の一部、本天沼二丁目の一部、本天沼三丁目の一部]

  • 地蔵堂、敷石供養塔 (64番)
  • 銀杏稲荷神社
  • 銀杏稲荷神社公園
  • 正楽寺
  • 馬頭観音 (62番)
  • 夢の卵
  • 庚申塔 (61番)
  • 等正寺

前回までは練馬区の史跡を巡り終了。今回は隣の杉並区の史跡を巡ることにした。昨日は一日かけて、杉並区の図書館で情報集めを行った。東京都の23区の図書館では近隣区の住民にも書籍の貸し出しを行っている。非常に便利な仕組みになっている。とりあえず、今回の東京滞在で訪問を予定している地域の情報を集めた。

井荻町 (井荻村)

杉並区は、1933年 (昭和7年) に和田堀町、高井戸町、井荻町、杉並町の四つの町が合併し誕生している。まずはこの一つの井荻地区から散策を始める。旧井荻町は1926年 (大正15年) までは井荻村で現在の住所では善福寺、上井草、井草、下井草、今川、清水、桃井、上荻、西荻、 北荻窪、南荻窪および西荻南、荻窪本天沼の一部にあたる。1889年 (明治22年) に下井草村、上井草村、上荻窪村、下荻窪村が合併して井草の「井」と荻窪の「荻」を合わせて井荻村が誕生している。今日はその内の旧下井草村を巡ることにする。

まずは自宅から近い旧井草村の旧下井草村から巡っていくことにする。


杉並区 旧井荻町 (井荻村) 下井草村

江戸時代の武州多摩郡井草村一帯は、中世には石神井城を本城とする豊島氏が治めていた。扇谷上杉氏の重臣の太田道灌に1477年 (文明9年) に攻められ滅亡するのだが、この地域には太田道灌にまつわる伝承が残されている。江戸時代には井草村 (上・下井草村)、上鷺宮、中村 (練馬区) は高家今川氏の領地だった。高家今川氏は駿河国、遠江国を本拠として栄えた足利一族の名家一族で、足利将軍家が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐという家だった。
井草の地名の由来は、妙正寺池、妙正寺川周辺、善福寺池、善福寺川周辺に藺草が生えていたためという説や、善福寺池の旧名である遅野井の草から井草と呼ばれたという説がある。また、その他に、室町時代後期に駿河の今川氏のもとから小田原に進出した北条早雲との戦いに敗れた相州三浦郡走水井口ノ郷の三浦氏の一族が逃れてきたのがこの地域で、 三浦をはばかり井口姓を名乗った井口長左衛門という者が、この地域の草分けと伝わり、この井口家が村の草分けという事で井草の地名の起こりとも言われている。
江戸時代から上井草村と下井草村は存在していたが、幕府は二つを合わせて井草村として把握していた。正保年間 (しょうほう 1644 ~ 1648年) 以後二ヵ村に分けられ、1649年 (慶安2年) 頃に公式に上・下井草村に分けて呼称する様になった。京都に近い西側は上井草村、遠い東側は下井草村と名付けられたが、地元住民は、上井草村を遅野井村、下井草村はもと通り井草村と呼んでいた。江戸時代末期、上井草村には、谷頭 (やがしら)、瀬戸原 (せとはら)、三家 (さんや)、八町 (はっちょう)、宿 (しゅく)、新宿 (しんしゅく)、寺分 (てらぶん)、渡戸 (わたど) の八つの小名が、下井草村には、柿ノ木 (かきのき)、沓掛 (くつかけ)、神戸 (ごうど)、八成 (はちなり)、井草前 (いぐさまえ) の五つの小名が存在していた。

明治時代に入り、下図のように何度か行政区の変更が行われている。旧下井草村は現在の下井草2-5丁目、井草1-5丁目、上井草1-2丁目、清水1-3丁目に相当する。



杉並区 旧井荻町 (井荻村) 旧下井草村 小名 井草前 (いぐさまえ 小字向井草) 

小名 井草前の地名は、井草村の中心から見て、前側の地域だから井草前になったという説と、古い時代にはこの地域が井草村の元村で、江戸時代に、村の中心 (名主宅のある地域) が妙正寺池の西側へ移ったので以前の井草という意味の井草前になったという説とがある。
江戸時代の小名 井草前は1889年 (明治22年) に井荻村の大字 向井草となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際には旧向井草の北部は下井草町、南部は向井町となっている。下の表は旧町と現在の行政区の対照表だが、実際はかなり複雑で複数の行政区にまたがっている。詳しくは後述する。

江戸時代の小名の井草前は明治時代には向井草と呼ばれるようになっている。この向井草の集落を見ると後に下井草町となった北部の地域に集中しており、南部の後の向井町にはほとんど集落は見られない。ただ、下井草町と向井町に分割される前は北部の下井草町にある集落群が向井と呼ばれていた。1927年 (昭和2年) に、北部の境界線に西武新宿線の下井草駅が開業してからは北部中心に民家が増え始め、戦後は住宅街が急速に拡大し現在は全域が住宅街になっている。

今回訪れた史跡等は下記の図の通り。所沢道沿いに多く見られる。


下井草町 [現 下井草ニ丁目北半分、下井草三丁目北半分、下井草四丁目の一部]

かつての中心地だったと考えられているのがこの下井草町で、村の有力者の屋敷跡が残っている。

下井草町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: 三峯神社
  • 庚申塔: 65番
  • 馬頭観音: なし
  • 地蔵菩薩: 63番

旧早稲田通り (所沢道)

下井草駅から昔の街道だった旧早稲田通り (所沢道) を南に進みながら史跡を見ていく。旧早稲田通りは、杉並区の早稲田通りの本天沼二丁目交差点 (写真右) から、西武新宿線の下井草駅前 (左) を経て、練馬区の富士街道に至る延長5kmの都道になる。かつては旧早稲田通り分起点辺を境に、東は「所沢通り」あるいは「大場通り」、西は「井草通り」などと呼ばれていた。江戸時代はこの道は沿道の村々と江戸・東京とを結ぶ主要な交通路のひとつで、荷車などによる農産物や下肥の運搬に広く利用され、農民の生活と産業を支えてきた。沿道には文化財が点在している。


三峯神社

旧早稲田通り (所沢道) の商店街の中に三峯神社が置かれている。当地の下井草講中によって江戸時代に祀られた祠と伝わっている。祭神ははっきりとはしないのだが三峯神社という事で、伊奘諾尊 (いざなぎ)、伊奘冉尊 (いざなみ) と考えられている。


屋敷林

旧早稲田通り (所沢道) を進み交差点で通りは南に曲がっている。この交差点の向かい下井草2-38に広大な敷地の旧家があり、その敷地内に屋敷林が残っている。この屋敷林は農家が風を防ぐため家屋の周囲に木や竹などを植えたものだった。


庚申塔 (65番)

旧早稲田通り (所沢道) を更に南に進むと、道沿いの堂内に庚申塔 (65番) が置かれている。ここは旧早稲田通りで下井草二丁目と三丁目の境に当たる。この庚申塔は1741年 (寛保元年) に願主 栗山長蔵 講中十三人により造立された笠付宝塔で、青面金剛と月日三猿一鬼が浮き彫りされている。道しるべを兼ねており、「下井草 しやくじ (石神井) 村 南中の村うしろ おそのい (遅野井) 村」と刻まれている。この場所は交差点になっており、旧早稲田通り (所沢道) と交わっている東西の道が遅野井道になり、道しるべにあるように西にある現在の今川三丁目・四丁目に広がっていた遅野井村 (上井草村) への道でもあった。 


遅野井道
この場所は交差点になっており、旧早稲田通り (所沢道) と交わっている東西の道が遅野井道になり、道しるべにあるように西にある現在の今川三丁目・四丁目に広がっていた遅野井村 (上井草村) への道でもあった。 


地蔵堂 (63番)

庚申塔 (65番) から遅野井道を東に少し入った所に地蔵堂が置かれている。光背蓮台に丸彫の地蔵菩薩立像が置かれている。1812年 (文化9壬申年) 10月に四谷忍町石工 本橋吉兵衛講中のより造られたもので武多摩群 井草村 道しるべを兼ねている。元々は旧早稲田通り (所沢道) の表通りにあったが1915年 (大正4年) にここに移転されている。


田中家長屋門

所沢道から外れ、遅野井道を西に進んでみる。旧下井草町の西の端、現在の下井草四丁目の東の端に屋敷林がある。そこには田中家の立派な総榉造り瓦葺二階建、白壁塗りの武家長屋門が残っている。正面の右側に武者窓、左右両側に各二個の高窓があり、下部が下見板、上部が白壁になっている。江戸時代は階級制度が厳しく、家の格式で長屋門の型式が定まり、当時の人々は門を見て、何万石の大名屋敷だ、何百石の旗本屋敷だと一目でわかったそうだが、江戸時代後期になると、領主の許可により村役人 (名主·年寄・組頭) 層も長屋門の建築が許さ、建てられるようになった。それでも、武家屋敷と区別する必要から、出格子作りの武者窓は禁止されていた。田中家は初代田中市郎兵衛 (1685年 貞享2年没) 以来、代々、市郎兵衛を名乗り村役人を勤めてきた旧家になる。井草村領主の今川氏は代々幕府高家 (儀礼を司る官職) として日光東照宮や伊勢神宮などに将軍の代参を行い、その折には有力農民を士分としてとりたて従者に加えていた。この長屋門は寛政年間 (1789 ~ 1801年) に建てられたという。当時の当主の田中市郎兵衛はたびたび今川氏の行列に供をしていた事や御用金をたびたび献上していた事から武者窓までついた武家長屋門が許されたと思われる。


向井公園

旧下井草町の南端に向井公園がある。史跡では無いのだが、この公園は旧下井草町内にあるのだが、この周辺は向井と呼ばれていた。旧下井草町の南が旧向井町になるのだが、この辺りも江戸時代には向井だったのだろう。この向井の名がこの公園に残っている。


井草の名灸

向井公園の前、下井草3丁目12番には、江戸時代から眼病によく効く家伝のお灸を提供していた田中家がある。先ほど訪れた長屋門があった田中家と関係があるのだろうか?江戸時代から「井草の名灸」と呼ばれ、全国的に有名だったそうだ。伝承によれば、江戸時代の初期に、夜の宿を貸した旅の行者から、宿のお礼に眼病に効く療法を伝授されたという。施療日は、毎月旧暦の23、24日の2日間だけで、身体の十二ヵ所のツボへのお灸の療法だったそうだ。現在でも「下井草治療院 めいきゅう」として施療を続けている。治療院の周りには「めいきゅう壱番館」「めいきゅう弐番館」「めいきゅう参番館」のマンションがある。田中家の経営だろうか?この周辺には「めいきゅう」の名の建物も幾つかあった。



向井町 [現 下井草ニ丁目南半分、下井草三丁目南半分、下井草一丁目の一部、下井草四丁目の一部、本天沼二丁目の一部、本天沼三丁目の一部]

江戸時代の小名 井草前は1889年 (明治22年) に井荻村の大字 向井草となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際には二つの町に分かれ、南の町はこの向井草の名を継承して向井町となっている。向井町は、小名 井草前のうち、妙正寺川北岸の地域で、田園をへだてた向かいの井草という意味から、向井草と呼ばれた小字だった。

向井町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。

  • 仏教寺院: 地蔵堂、正楽寺 (?)、等正寺
  • 神社: 銀杏稲荷神社
  • 庚申塔: 61番
  • 馬頭観音: 62番
  • 地蔵菩薩: なし
  • その他: 阿弥陀如来石橋供養塔 (64番)


地蔵堂、阿弥陀如来石橋供養塔 (64番)

井草の名灸の南側の道が、旧下井草町と向井町の境界線だった。この道を南に渡ったすぐの所に地蔵堂が置かれている。この地蔵堂は、1713年 (正徳3年) 6月に今川の観泉寺持として、本尊を地蔵菩薩として旧下井草村字向井草 (井草前) の現在地に創立され、平等軒とも呼ばれていた。1841年 (天保12年) に地蔵堂が焼失し、翌年に田中惣兵衛が村民の代表者として鳥見役に再建を願い出ている。ここでも田中家の名が出てきた。多分、先ほど訪れた長屋門があった田中家の当主の事だろう。1868年 (明治元年) には観泉寺庵室となり尼僧の慈照が常駐していた。この当時は境内は90坪の年貢地だったが、1878年 (明治10年) 代初めには130坪となり信徒も31人に増え、その後、観泉寺から独立している。現在では僅か3坪の境内に堂宇が建てられている。近年までは、約30人の地蔵講中が毎年11月24日に集まりを行なっていたのだが、現在は地元有志により管理されている。堂宇内には厨子が置かれている。多分元々の本尊の地蔵菩薩が安置されているのだろう。その傍らには厨子を開帳した写真も置かれていた。堂前左側には1758年 (宝暦8年) 8月建立の駒形の石橋供養塔 (64番 写真右下) が置かれ、阿弥陀如来が浮き彫りされている。言い伝えでは、ここで二人の武士が斬り殺されたとか、斬り合いをした二人の武士がとも亡くなったので、ここでに供養塔が建てられたとも伝わっている。反対側にも江戸時代に造立された2基の石塔 (写真上) が置かれている。


銀杏稲荷神社

地蔵堂から東に向い、旧早稲田通り (所沢道) に戻る。所沢道沿い、住宅地の路地の奥には1616年 (元和2年) に井草村豪農の井口家二代の井口外記により創立されたといわれる銀杏稲荷がある。旧下井草村の鎮守稲荷社として妙正寺が別当として管理しており、村民に信仰されていた。二月の初午の日には1829年 (文政12年) に奉納された「正一位銀杏稲荷大明神」と書いた幟 (現存) を立て、御神酒と赤飯を供え五穀豊穣・講中安全・子孫繁栄を祈願して祀っている。供物の赤飯のおにぎりを鶏に食べさせると、狐に盗られないというので、この日に配られる赤飯のおにぎりを貰うために他村からも参詣者が多く、近郷に広く知られた稲荷だった。稲荷社の裏山に、大正初年までは大きな銀杏の林があったので銀杏稲荷と呼ばれるようになったという。現在の祠の脇にも銀杏の木があるのだが、枯れてしまっている。小字 向井草にあった36軒の農家で作った講中を7組に分け順番に当番の組が一年間この稲荷社を世話していた。また祠の横には四つの力石が置かれている。昔は神社境内で若者達が力比べをしていたのだろう。
かつて、銀杏稲荷神社は二百坪の敷地には広い拝殿があったのだが、道路から離れた山の中にあった社殿に乞食がに住みつき、御神体や備品などを燃してしまった事件が起こり、奥の院だけ残して前の拝殿を取り壊し、社殿が小さくなった。その後、どうも社殿も無くなってしまった様だ。現在では七坪の土地に小さな祠を作り祀っている。
ちなみに、井口家は相模の三浦氏の末裔で、天正年間 (1573 ~ 1592年) に当地に移住してきた。一族は名主や年寄役を勤め、下井草村の有力者だった。

銀杏稲荷神社公園

銀杏稲荷神社から所沢道は北に向かって坂道になっている。この坂は稲荷坂と呼ばれている。
坂道を登った所には公園があり、銀杏稲荷神社に因んで銀杏稲荷神社公園と名付けられている。ここはかつての銀杏稲荷神社の広大な境内の一部だったのだろうか?

正楽寺

所沢道を南に進み妙正寺川を渡ると1ブロック東側にピンク色建物の正楽寺がある。この寺については全く情報がなかった。仏教寺院なのか、新興宗教の寺なのだろうか?この辺り正楽寺の北側は明治大正期には御堂前と呼ばれていた。かつてはここに観泉寺の観音堂があったことからそう呼ばれていた。

馬頭観音 (62番)

正楽寺の南側住宅地の中に祠が置かれている。祠内に隅丸方形塔に馬頭観音座像が浮き彫りされている。文化十二乙亥四月建之とあるので1815年に造立されている。「如是畜生発菩提心 变体生天生地危砕 草木国土悉皆成仏」と刻まれている。ここの住民のご婦人に確認したところ、元々ここにあったわけではなく、旧向井町の馬捨場に妙正寺の僧侶が死んだ馬の供養として建てていたが、その後、道端に打ち捨てられていたのを、ここのご婦人の父親がいたたまれなく持ち帰り、祠を作り、祀っているそうだ。花など供物も置かれ大切にされている。


夢の卵

妙正寺川沿いは遊歩道になっており、川に架かる日向上橋の所は休憩所が造られ、ここに夢の卵のモニュメントが置かれ、「夢を大切に」とメッセージが書かれていた。この卵のモニュメントは、後日、数ヶ所で出くわすことになる。この辺りは大正時代までは峡田 (はけた) と呼ばれていた。由来についてははっきりとはしないのだが、妙正寺川がここで崖下を流れていたからとか、湾曲しており、川に挟まれる地形だったからともいわれている。
2024年4月5日に妙正寺川桜を見たく、この地を再訪した。期待どうりに桜が咲いていた。


庚申塔 (61番)

妙正寺川の遊歩道を北に進むと早稲田通りと呼ばれる都道438号線 (向井町新町線) に交差する。早稲田通りを東に少し進んだ道沿い、日向橋のバス停の前に庚申塔の祠がある。(元禄6年) に造立された駒形の石塔で正面に「庚申講中」と刻まれている。この辺り、都道438号線の北、妙正寺川までの地域は昭和初期までは廻淵 (まわりぶち) と呼ばれていた。旧早稲田通りは江戸時代は長命寺道、新高野道、所沢道と呼ばれていた。この街道はかつてはここの庚申塔の前の早稲田通りを西に進み、その北の妙正寺川に架かる日向橋を渡り、妙正寺川に沿って銀杏稲荷神社のある稲荷坂に続く道だった、このように大きく迂回していたことから、この地域がこのように廻淵 (まわりぶち) と呼ばれていた。


等正寺

現在の本天沼三丁目の北側はかつては向井町の一部だった。この地域内に浄土真宗本願寺派の応供山等正寺がある。江戸期の作といわれる木造阿弥陀如来立像を本尊として祀っている。御府内備考続編によれば、1622年 (元和8年) に足利義満の家臣であった浅野民部大輔永慶の九代の末裔と伝えられている不退院玄証により江戶湯島に開創されたとされる。1703年 (元禄16年) に類焼に遭い、翌年には寺地が御用地となったため、興安寺の隣 (現文京区本郷二丁目) に寺地を拝領して移転した。 創建当初は東本願寺に属していたが、1759年 (宝暦9年) に西本願寺に帰山している。1840年 (天保11年) に再度火災に遭い、記録類や宝物などの大半を失っている。1923年 (大正12年) の関東大震災で罹災、その後、本郷地区の区画整理のため、1929年 (昭和4年) に井荻町中瀬 (現清水3-23) へ移り、1941年 (昭和16年) に現在の地に再々移転している。現在の本堂は、1971年 (昭和46年) に建立されたもの。墓地には、狂歌師三陀羅法師(1814年 文化11年没) の墓 (見つからず)、江戸で大流行した都々逸の三代目都々逸坊扇歌 (1880年 明治13年没) の墓 (右下) がある。

これで、杉並区史跡巡りの初日が終了。まだ、資料が十分に読み込めていないので、初日は早めに切り上げて、資料チェックを行う。

参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 井草のむかし (2019 井口昭英)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪(1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪(1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)

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