杉並区 02 (04/12/23) 旧井荻町 (井荻村) 旧下井草村 (1) 井草前
旧下井草村小名 井草前 (いぐさまえ 小字向井草)
下井草町 [現 下井草ニ丁目北半分、下井草三丁目北半分、下井草四丁目の一部]
- 旧早稲田通り (所沢道)
- 三峯神社
- 屋敷林
- 田中家長屋門
- 向井公園
- 井草の名灸
- 庚申塔 (65番)
- 遅野井道
- 地蔵堂 (63番)
向井町 [現 下井草ニ丁目南半分、下井草三丁目南半分、下井草一丁目の一部、下井草四丁目の一部、本天沼二丁目の一部、本天沼三丁目の一部]
- 地蔵堂、敷石供養塔 (64番)
- 銀杏稲荷神社
- 銀杏稲荷神社公園
- 正楽寺
- 馬頭観音 (62番)
- 夢の卵
- 庚申塔 (61番)
- 等正寺
井荻町 (井荻村)
杉並区 旧井荻町 (井荻村) 下井草村
井草の地名の由来は、妙正寺池、妙正寺川周辺、善福寺池、善福寺川周辺に藺草が生えていたためという説や、善福寺池の旧名である遅野井の草から井草と呼ばれたという説がある。また、その他に、室町時代後期に駿河の今川氏のもとから小田原に進出した北条早雲との戦いに敗れた相州三浦郡走水井口ノ郷の三浦氏の一族が逃れてきたのがこの地域で、 三浦をはばかり井口姓を名乗った井口長左衛門という者が、この地域の草分けと伝わり、この井口家が村の草分けという事で井草の地名の起こりとも言われている。
江戸時代から上井草村と下井草村は存在していたが、幕府は二つを合わせて井草村として把握していた。正保年間 (しょうほう 1644 ~ 1648年) 以後二ヵ村に分けられ、1649年 (慶安2年) 頃に公式に上・下井草村に分けて呼称する様になった。京都に近い西側は上井草村、遠い東側は下井草村と名付けられたが、地元住民は、上井草村を遅野井村、下井草村はもと通り井草村と呼んでいた。江戸時代末期、上井草村には、谷頭 (やがしら)、瀬戸原 (せとはら)、三家 (さんや)、八町 (はっちょう)、宿 (しゅく)、新宿 (しんしゅく)、寺分 (てらぶん)、渡戸 (わたど) の八つの小名が、下井草村には、柿ノ木 (かきのき)、沓掛 (くつかけ)、神戸 (ごうど)、八成 (はちなり)、井草前 (いぐさまえ) の五つの小名が存在していた。
明治時代に入り、下図のように何度か行政区の変更が行われている。旧下井草村は現在の下井草2-5丁目、井草1-5丁目、上井草1-2丁目、清水1-3丁目に相当する。
杉並区 旧井荻町 (井荻村) 旧下井草村 小名 井草前 (いぐさまえ 小字向井草)
江戸時代の小名の井草前は明治時代には向井草と呼ばれるようになっている。この向井草の集落を見ると後に下井草町となった北部の地域に集中しており、南部の後の向井町にはほとんど集落は見られない。ただ、下井草町と向井町に分割される前は北部の下井草町にある集落群が向井と呼ばれていた。1927年 (昭和2年) に、北部の境界線に西武新宿線の下井草駅が開業してからは北部中心に民家が増え始め、戦後は住宅街が急速に拡大し現在は全域が住宅街になっている。
下井草町 [現 下井草ニ丁目北半分、下井草三丁目北半分、下井草四丁目の一部]
下井草町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。
- 仏教寺院: なし
- 神社: 三峯神社
- 庚申塔: 65番
- 馬頭観音: なし
- 地蔵菩薩: 63番
旧早稲田通り (所沢道)
下井草駅から昔の街道だった旧早稲田通り (所沢道) を南に進みながら史跡を見ていく。旧早稲田通りは、杉並区の早稲田通りの本天沼二丁目交差点 (写真右) から、西武新宿線の下井草駅前 (左) を経て、練馬区の富士街道に至る延長5kmの都道になる。かつては旧早稲田通り分起点辺を境に、東は「所沢通り」あるいは「大場通り」、西は「井草通り」などと呼ばれていた。江戸時代はこの道は沿道の村々と江戸・東京とを結ぶ主要な交通路のひとつで、荷車などによる農産物や下肥の運搬に広く利用され、農民の生活と産業を支えてきた。沿道には文化財が点在している。
三峯神社
屋敷林
旧早稲田通り (所沢道) を進み交差点で通りは南に曲がっている。この交差点の向かい下井草2-38に広大な敷地の旧家があり、その敷地内に屋敷林が残っている。この屋敷林は農家が風を防ぐため家屋の周囲に木や竹などを植えたものだった。
庚申塔 (65番)
旧早稲田通り (所沢道) を更に南に進むと、道沿いの堂内に庚申塔 (65番) が置かれている。ここは旧早稲田通りで下井草二丁目と三丁目の境に当たる。この庚申塔は1741年 (寛保元年) に願主 栗山長蔵 講中十三人により造立された笠付宝塔で、青面金剛と月日三猿一鬼が浮き彫りされている。道しるべを兼ねており、「下井草 しやくじ (石神井) 村 南中の村うしろ おそのい (遅野井) 村」と刻まれている。この場所は交差点になっており、旧早稲田通り (所沢道) と交わっている東西の道が遅野井道になり、道しるべにあるように西にある現在の今川三丁目・四丁目に広がっていた遅野井村 (上井草村) への道でもあった。
地蔵堂 (63番)
庚申塔 (65番) から遅野井道を東に少し入った所に地蔵堂が置かれている。光背蓮台に丸彫の地蔵菩薩立像が置かれている。1812年 (文化9壬申年) 10月に四谷忍町石工 本橋吉兵衛講中のより造られたもので武多摩群 井草村 道しるべを兼ねている。元々は旧早稲田通り (所沢道) の表通りにあったが1915年 (大正4年) にここに移転されている。
田中家長屋門
所沢道から外れ、遅野井道を西に進んでみる。旧下井草町の西の端、現在の下井草四丁目の東の端に屋敷林がある。そこには田中家の立派な総榉造り瓦葺二階建、白壁塗りの武家長屋門が残っている。正面の右側に武者窓、左右両側に各二個の高窓があり、下部が下見板、上部が白壁になっている。江戸時代は階級制度が厳しく、家の格式で長屋門の型式が定まり、当時の人々は門を見て、何万石の大名屋敷だ、何百石の旗本屋敷だと一目でわかったそうだが、江戸時代後期になると、領主の許可により村役人 (名主·年寄・組頭) 層も長屋門の建築が許さ、建てられるようになった。それでも、武家屋敷と区別する必要から、出格子作りの武者窓は禁止されていた。田中家は初代田中市郎兵衛 (1685年 貞享2年没) 以来、代々、市郎兵衛を名乗り村役人を勤めてきた旧家になる。井草村領主の今川氏は代々幕府高家 (儀礼を司る官職) として日光東照宮や伊勢神宮などに将軍の代参を行い、その折には有力農民を士分としてとりたて従者に加えていた。この長屋門は寛政年間 (1789 ~ 1801年) に建てられたという。当時の当主の田中市郎兵衛はたびたび今川氏の行列に供をしていた事や御用金をたびたび献上していた事から武者窓までついた武家長屋門が許されたと思われる。
向井公園
旧下井草町の南端に向井公園がある。史跡では無いのだが、この公園は旧下井草町内にあるのだが、この周辺は向井と呼ばれていた。旧下井草町の南が旧向井町になるのだが、この辺りも江戸時代には向井だったのだろう。この向井の名がこの公園に残っている。
井草の名灸
向井公園の前、下井草3丁目12番には、江戸時代から眼病によく効く家伝のお灸を提供していた田中家がある。先ほど訪れた長屋門があった田中家と関係があるのだろうか?江戸時代から「井草の名灸」と呼ばれ、全国的に有名だったそうだ。伝承によれば、江戸時代の初期に、夜の宿を貸した旅の行者から、宿のお礼に眼病に効く療法を伝授されたという。施療日は、毎月旧暦の23、24日の2日間だけで、身体の十二ヵ所のツボへのお灸の療法だったそうだ。現在でも「下井草治療院 めいきゅう」として施療を続けている。治療院の周りには「めいきゅう壱番館」「めいきゅう弐番館」「めいきゅう参番館」のマンションがある。田中家の経営だろうか?この周辺には「めいきゅう」の名の建物も幾つかあった。
向井町 [現 下井草ニ丁目南半分、下井草三丁目南半分、下井草一丁目の一部、下井草四丁目の一部、本天沼二丁目の一部、本天沼三丁目の一部]
江戸時代の小名 井草前は1889年 (明治22年) に井荻村の大字 向井草となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際には二つの町に分かれ、南の町はこの向井草の名を継承して向井町となっている。向井町は、小名 井草前のうち、妙正寺川北岸の地域で、田園をへだてた向かいの井草という意味から、向井草と呼ばれた小字だった。
向井町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。
- 仏教寺院: 地蔵堂、正楽寺 (?)、等正寺
- 神社: 銀杏稲荷神社
- 庚申塔: 61番
- 馬頭観音: 62番
- 地蔵菩薩: なし
- その他: 阿弥陀如来石橋供養塔 (64番)
地蔵堂、阿弥陀如来石橋供養塔 (64番)
井草の名灸の南側の道が、旧下井草町と向井町の境界線だった。この道を南に渡ったすぐの所に地蔵堂が置かれている。この地蔵堂は、1713年 (正徳3年) 6月に今川の観泉寺持として、本尊を地蔵菩薩として旧下井草村字向井草 (井草前) の現在地に創立され、平等軒とも呼ばれていた。1841年 (天保12年) に地蔵堂が焼失し、翌年に田中惣兵衛が村民の代表者として鳥見役に再建を願い出ている。ここでも田中家の名が出てきた。多分、先ほど訪れた長屋門があった田中家の当主の事だろう。1868年 (明治元年) には観泉寺庵室となり尼僧の慈照が常駐していた。この当時は境内は90坪の年貢地だったが、1878年 (明治10年) 代初めには130坪となり信徒も31人に増え、その後、観泉寺から独立している。現在では僅か3坪の境内に堂宇が建てられている。近年までは、約30人の地蔵講中が毎年11月24日に集まりを行なっていたのだが、現在は地元有志により管理されている。堂宇内には厨子が置かれている。多分元々の本尊の地蔵菩薩が安置されているのだろう。その傍らには厨子を開帳した写真も置かれていた。堂前左側には1758年 (宝暦8年) 8月建立の駒形の石橋供養塔 (64番 写真右下) が置かれ、阿弥陀如来が浮き彫りされている。言い伝えでは、ここで二人の武士が斬り殺されたとか、斬り合いをした二人の武士がとも亡くなったので、ここでに供養塔が建てられたとも伝わっている。反対側にも江戸時代に造立された2基の石塔 (写真上) が置かれている。
銀杏稲荷神社
銀杏稲荷神社公園
正楽寺
馬頭観音 (62番)
夢の卵
庚申塔 (61番)
妙正寺川の遊歩道を北に進むと早稲田通りと呼ばれる都道438号線 (向井町新町線) に交差する。早稲田通りを東に少し進んだ道沿い、日向橋のバス停の前に庚申塔の祠がある。(元禄6年) に造立された駒形の石塔で正面に「庚申講中」と刻まれている。この辺り、都道438号線の北、妙正寺川までの地域は昭和初期までは廻淵 (まわりぶち) と呼ばれていた。旧早稲田通りは江戸時代は長命寺道、新高野道、所沢道と呼ばれていた。この街道はかつてはここの庚申塔の前の早稲田通りを西に進み、その北の妙正寺川に架かる日向橋を渡り、妙正寺川に沿って銀杏稲荷神社のある稲荷坂に続く道だった、このように大きく迂回していたことから、この地域がこのように廻淵 (まわりぶち) と呼ばれていた。
等正寺
参考文献
- すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 井草のむかし (2019 井口昭英)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪(1977 森 泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪(1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)
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