Okinawa 沖縄 #2 Day 198 (23/07/22) 旧宜野湾間切 (13) Ginowan Hamlet 宜野湾集落
旧宜野湾間切 宜野湾集落 (ぎのわん、ジノーン)
- 並松 (ナンマチ)、馬場跡 (ウマィー)、宜野湾市場 (ジノーンマチグワー)
- 後ヌ御嶽 (クシヌウタキ、基地内)
- 前ヌ御嶽 (メーヌウタキ、基地内)
- 大里ノ大ヒヤの殿 (基地内、消滅)
- 御嶽小 (ウタキグワー、基地内 消滅)
- 前ヌ井 (メーヌカー、基地内)
- 後ヌ井 (クシヌカー、基地内 消滅)
- サクヌカー (基地内 消滅)
- 新井 (ミーガー、基地内 消滅)
- 犬井 (インガー、基地内)
- シマクサラシ御願場所
- アカタガー (未訪問)
- 巫殿内 (ヌンドゥンチ 基地内 移設)
- 殿 (トゥン、キチラセヒヤの殿 基地内 移設)
- 土帝君 (トゥーティークー)
- 宜野湾公民館
- 闘牛場 (ウシナー) 跡、シマクサラシ御願場所
- マータクドー・闘牛場 (ウシナー) 跡
- はらから之塔
- クマイアブ
- シマクサラシ御願場所
今日は宜野湾、長田を巡る。前回、7月19日に我如古、志真志の両集落を巡った際に、宜野湾の幾つかの文化財も巡っている。今日は残りを見学し、別の集落も見る予定だ。長田は屋取集落で文化財も限られているので、気力が残っていれば、神山集落と愛知集落にも足を伸ばしたい。
旧宜野湾間切 宜野湾集落 (ぎのわん、ジノーン)
宜野湾部落は戦前は宜野湾同村 (ジノーンドームラ) とも言われ、宜野湾村のほぼ中央に位置 し、宜野湾並松 (ナンマチュー) に沿ってその東側に広がる大きな部落だった。宜野湾集落の成立は、最初東側の突き出たところ、後村渠 (クシンダカリ) の東側の上村渠 (ウインダカリ) が集落発祥の地とされている。昔は宜野湾にはギヌワンとナカジャトゥという二つの集落があり、この二つの邑が統合されて宜野湾集落となったと考えられている。以降、ギヌワンは後村渠 (クシンダカリ)、ナカジャトゥは前村渠 (メーンダカリ) と呼ばれるようになった。
1617年に宜野湾間切ができた際に間切番所が置かれ、尚弘喜 (宜野湾王子朝義)、章惟烈(亀山親方正親) の二人が初代の両総地頭として任命され、宜野湾間切を領有することになった。琉球千草之巻によれば、宜野湾大神の御子である神山按司が根所で、東大里村より来る松本大屋子在所桃原とある。
沖縄県になった後も、ここには村役場、小学校、郵便局巡査駐在 、農業組合、農民道場、斎場など公共施設が集中しており、宜野湾村の政治、経済、文化の中心地だった。
宜野湾には、集落の前方 (南西) には宜野湾前原 (ジノーンメーバル)、東側の高台地域に宜野湾ヌ東 (ジノーンヌアガリ)、宜野湾ヌ上 (ジノーンヌイー) などと呼ばれる屋取 (ヤードゥ イ) 集落があった。 これらの屋取集落は、1939年 (昭和14年)、集落南東側の地域が長田となり、 集落東側は神山の一部とともに愛知、神山、新城、喜友名の一部とともに赤道となった。 集落南西側の地域は、宜野湾、大謝名、嘉数、我如古の一部とともに真栄原となり、真栄原からはその後、佐真下が独立している。1964年の行政区再編で 志真志の一部分が合併されている。
宜野湾部落は耕地面積が広く資産家が多い。昭和19年頃には、牛、馬、豚、山羊などの家畜が約一千頭も飼育されていた。農作物は甘薯を基幹作物として甘藷、大豆が主要作物だった。黒糖製造も盛んで最初4カ所あった製糖小屋が1944年 (昭和19年) には15カ所に増設されていた。
字宜野湾では戦前は比較的人口が多かったが、戦後停滞期が本土復帰まで続き、それ以降はコンスタントに人口は増加しており、現在もその傾向にある。
字宜野湾は旧宜野湾村の中心地だったこともあり、明治から大正、昭和初期までは人口の最も多い地区だった。沖縄戦が終わった直後は、帰還がいち早く許可がおりた大山に首位の座を譲り、それ以降は、他の地域に比べ人口の増加率は高くなく、元々宜野湾区から分離した長田区の人口の方が多くなっている。戦前までは幹線道路だった普天間街道沿いが栄えたが、この道が米軍基地に接収され交通の便が絶たれた事があるのかもしれない。現在では宜野湾市では人口は真ん中ぐらいにとどまっている。普天間飛行場返還後の開発で発展が期待されているが、まだまだ先の話になる。
琉球国由来記に記載されている拝所は以下の通り
- 御嶽: 前ヌ御獄 (メーヌウタキ、中ヌ森 神名: 不明 基地内)、後ヌ御獄 (クシヌウタキ、カネヌ森 神名: 不明 基地内)
- 殿: 殿 (トゥン、キチラセヒヤの殿 基地内 移設)、大里ノ大ヒヤの殿 (基地内 消滅)
- その他拝所: 大里ヌ御獄 (ウフザトゥヌウタキ)、土帝君 (トゥー ティークー)、ヌル殿内、御嶽小 (ウタキグワー)
- 七御井=ヌールガー (基地内)、前ヌ井 (メーヌカー 産ガーでウフカー ともいう、基地内)、サクヌカー、メーヌールガー、アクタガー、神山ヌ前ヌ井、カラジアレーガー
- その他井泉: 犬井 (インガー、基地内)、喜瀬ヌメーヌガマ、ミーガー
殆どの拝所が現在は基地敷地内にあった集落発祥地にあったが、多くは消滅している。
宜野湾の祭祀行事には、旧暦2月2日の土帝君祭り、旧暦2月, 3月 の麦ウマチー、旧暦3月3日のサングワ チャー、旧暦4月のアブシバレー、旧暦5月、6月の稲ウマチー、チナヒチ (綱引き)、 旧暦7月のお盆などがあった。現在でも、宜野湾郷友会が結成され自治会とともに、旧暦3月3日のサングワチや旧暦7月のエイサー、舞方 (メーカタ)、旗頭演舞等の伝統行事を継承している。戦前まで行われていた祭祀は以下の通り。
宜野湾集落では土帝君例祭、カーサレー拝み、シマクサラシを村の祭りとして継続している。
琉球王朝時代には聞得大君を最高女神官とし儀保大アムシラレの配下として宜野湾集落に祝女 (ノロ) が置かれ、宜野湾、神山、喜友名、伊佐、嘉数、我如古の六部落を管轄していた。この祭祀組織は明治12年の廃藩置県後に徐々に崩れていった。
宜野湾集落訪問ログ
並松 (ナンマチ)、馬場跡 (ウマィー)、宜野湾市場 (ジノーンマチグワー)
戦前の宜野湾集落は、尚敬王時代三司官となった具志頭親方蔡温が三司官時代に植樹させた並松 (ナンマチ) と呼ばれた普天間街道沿いに広がっていた。この並松には宜野湾馬場があった。並松の北側は宜野湾野小学校があり、運動会もここで行われていた。並松と馬場の間には、松の大木の並木が並んでいた。この松の目陰には広場があり、毎日午後二時、三時頃まで宜野湾市場 (ジノーンマチグワー) と呼ばれた露天市が開かれ、精肉鮮魚、農産物、農産加工品などが取引きされ年中にぎわっていた。首里、那覇あたりから仲買商人が来てここで仕入れ、首里、那覇で売りさばいていた。また、その界隈や並松沿いには、日用雑貨品店、飲食店、理髪店、くすり屋、料亭、ふろ屋などの商店が並んでいた。残念な事に、この並松、馬場、市場は沖縄戦で戦禍に見舞われ、跡形もなく消え失せてしまった。
この馬場では綱引きが行われていた。毎年旧6月に四組ずつで、前村渠 (メーンダカリ雄綱)と後村渠 (クシンダカリ 雌綱) の二手に分かれて旗頭を先頭に集落内から、宜野湾馬場に向けて行進 (道ジュネー) し、旗頭、ガーエー、メーモーイ、 開会行事、綱引き、 戻り綱、 シュニンモーアシビ、 カチャーシー等の伝統行事が行われていた。戦後、この綱引きは途絶えていたが、2007年 (平成19年) に沖縄国際大学運動場で66年ぶりに「じのーん大綱引き」が復活し、現在も継承され5年毎に行われている。
後ヌ御嶽 (クシヌウタキ、基地内)
普天間飛行場内に琉球国由来記に記載のあるカネヌ御嶽とされる後ヌ御嶽 (クシヌウタキ) がある。御嶽は破損したが、ほぼ原形に修復されている。 大和旅を無事に終えた宜野湾王子朝祥 (朝陽) から、寄進された石灯籠も残っている。 朝祥 (1765-1827) は、尚穆王の第四王子で、後に尚灝王の摂政となっている。11代将軍家斉の即位慶賀正使も務めた人物。後の御嶽は綱引きの御願で拝まれている。
前ヌ御嶽 (メーヌウタキ、基地内)
基地内にはもう一つ前ヌ御嶽があったのだが、普天間飛行場建設で破壊され、跡には御ウスク (あこう) が一本遣っただけだった。その根元に香炉が置かれている。戦前は御嶽内に石祠があり、その中に香炉が置かれていた。基地内なので見学は出来ず、宜野湾字誌の写真を載せている。
大里ノ大ヒヤの殿 (基地内、消滅)
この前ヌ御嶽と対になるのが大里ノ大ヒヤの殿と考えられている。屋号大里の先祖とで根人と伝わる大里ノ大ヒヤの管理していた殿と考えられているが、前の御嶽の近くに殿と呼ばれる拝所は認識されておらず、なかったという。前ヌ御嶽と大里の屋敷との間には御嶽小がある。大里の大ヒヤの殿は、御嶽小の近くにあったか、大里家屋敷内に設けられていたと推測されている。大里家が衰微したこともあって、前の御嶽の殿としての大里ノ大ヒヤの殿での祭祀も後の御嶽の殿であるキチラセヒヤの殿で併せて行なわれるようになったと思われる。(戦前の写真は見つからず)
御嶽小 (ウタキグワー、基地内 消滅)
前ヌ御嶽に隣接して御嶽小 (ウタキグワー) の拝所もあったのだが、破壊されて消滅している。御嶽小は大里門中が拝む拝所で、大里門中の屋敷はすぐ近くにあり、そこから道が設けられ御神の門をくぐったところに骨神 (先祖の遺骨) が安置した祠があったそうだ。(これも、戦前の写真は見当たらなかった。)
前ヌ井 (メーヌカー、基地内)
シマクサラシの御願場所が普天間飛行場のフェンス手前にある。旧暦8月10日 (他の殆どの集落では2月) に、集落の入り口6か所で疫病回避の御願のシマクサラシが行われている。 このシマクサラシは以前は各集落で行われていた。戦前までは、左側によった左縄 (ヒジャイナー) をはり、牛の骨をぶら下げて御願が行われていた。この宜野湾集落の様に、村の年中祭祀行事として行われている集落は少なくなっている。宜野湾市では無形文化財に指定されている。案内板にこのシマクサラシの6ヶ所の場所が記されている。この場所が戦後の宜野湾集落の境にあたるので、戦後新しくつくられた集落がどれほどの大きさなのかがわかるので、その場所に行く事にした。ここは集落の北東の端になる。
ここから基地内を見ると、樹木が密生している場所がある。その辺りに前ヌ井 ( メーヌカー) があるそうだ。昔は大井 (ウフガー) とも呼ばれていた。この場所はかつての宜野湾集落の中心部にあたる。屋号 チャシの先祖チャシヌヒャーが墓を掘った時に見つけた泉と伝わっている。字宜野湾には、前ヌ井、後ヌ井、サクヌカー、ミーガーの四つが主要な井泉で、その一つになる。前ヌ井は、全体が窪地をなした天然の泉で、かつては水源近くまで降りて飲料水を汲んでいたが、その後、仕切りを設けて飲料水、浴水、洗濯用水の三槽に区分されていた。この井戸ができるとサクヌカーから産井泉の機能を引き継ぎ、集落では最も大切な井戸とされ、盆や清明の際に拝まれている。また、1968年までは、土帝君の丘に設置された水タンクへポンプで汲みあげられ、簡易水道水源に利用されていた。戦前建立した石碑も残っているそうだが、基地内なので見学はできない。この辺りはかつての集落よりも高台でマージといわれる赤土の畑地が広っており、主にサトウキビと芋が作られていた。
この前之井ではカーサレー拝みが旧暦6月25日にあり、宜野湾集落の三つに大切な祭祀行事の一つとなっている。(残りの二つは土帝君例祭とシマクサラシでこの三つは宜野湾市無形文化財となっている) 郷友会が基地内に入り、湧き水の清掃 (カーさらい) の後、代表者による同日にある綱引き御願がおこなわれている。
基地内には多くの井泉が存在していたが、元の集落自体が普天間飛行場として接収され、造成整備工事などで、その多くが消滅している。宜野湾字誌でそれらが紹介されていた。
- 後ヌ井 (クシヌカー、基地内 消滅)
宜野湾と神山との境界をなすシリガーラの左岸に後ヌ井 (クシヌカー) があったが、普天間飛行場の滑走路となり埋まられて消滅している。この井泉は水量が比較的豊富 であったので、神山の人々にも飲料水として利用されていた。
- サクヌカー (基地内 消滅)
基地内にはサクヌカーと呼ばれた字宜野湾の産井泉もあった。深さが約9m以上もあり、周囲の壁は石積みが施され、螺旋状石段を降りて水を汲んだ。 前ヌ井 (メーヌカー) が整備されると洗濯用水に利用されるようになった。 サクヌカーも飛行場建設にともない消失したが、現在では清明やお盆の際には祈願が行なわれている。
- 新井 (ミーガー、基地内 消滅)
これも消滅してしまったのだが、滑走路脇には新井 (ミーガー) があった。このミーガーは今から明治後期に7ヵ月余も続いたヒャーイ (干魃) の年に村人が総出で掘られた新しい共同井戸で、約13mもの深さがあり、水量も豊かだった。 この井戸ができた後は、字宜野湾では水に困ることは少なくなったそうだ。
犬井 (インガー、基地内)
後ヌ御嶽の少し西側に犬井 (インガー) と呼ばれる井泉がある。この犬井 (インガー) という井泉は今までも幾つかの集落で出会っている。ここも他の犬井と同じく、犬が見つけた井泉だそうだ。
シマクサラシ御願場所
犬井がある場所から集落への道があるのだが、ここはシマクサラシ御願の場所だ。集落の北東の端にあたる。道の脇には神屋があったが、中は空っぽで今は何も祀っていないようだ。
アカタガー (未訪問)
公民館の近く、集落南東方向にアカタガーと呼ばれた共同井泉があり、 宜野湾集落で一番初めにできたカーと伝わっている。 現地に行ってみたが、それらしきものは見当たらないず、写真も見つからなかったのだが、近辺を歩くと林の中への道らしきものがあり、林の中に空間がある。多分、この林の空間に井泉があるのではと思ったのだがそこまでの道は背の高い雑草で覆われていたので、中に入るのは断念した。
巫殿内 (ヌンドゥンチ 基地内 移設)
元々は基地内の後ヌ御嶽の西側に殿 (トゥン) があり、更に少し西に巫殿内があった。戦後、巫殿内はこの場所に移されている。琉球国由来記には、邑として拝んでいた火ヌ神は里主所火神 (サトゥヌシジュヒヌカン、宜野湾御殿火神または地頭火神) と巫火神 (ヌルヒヌカン) が記されている。 巫殿内は宜野湾ノロの屋敷になり、そこには戦前までノロの住宅と神屋の茅葺きの建物が二棟あり、神屋にはクニデーヌ御神、クニアーヌ火神、宜野湾御殿の火の神、ヌール火神が祀られていた。移設されたコンクリート造りの巫殿内の神屋にもクニデー ウカミ御神、クニデーヌ火神、ヌール火神の香炉が置かれている。宜野湾御殿火神 (里主所火神) は琉球王統時代には旧暦9月中に宜野湾御殿 (旧宜野湾王子家) の使者が来て拝んだという。17世紀末以降、宜野湾間切の按司地頭は王子で、この火神を通して間切の繁栄を祈願したと思われ、巫殿内に安置されていた。宜野湾ノロを出す家筋の屋号 嘉手苅が管理してきた。
殿 (トゥン、キチラセヒヤの殿 基地内 移設)
後ヌ御嶽とかつてのノロ殿内との間に殿 (トゥン) が存在していた。琉球国由来記にはキチラセヒヤの殿と大里ノ大ヒヤの殿の二つの殿があったと記載されている。現在、殿と呼ばれているものは、後ヌ御嶽と対になっているキチラセヒヤの殿と考えられている。長男が宜野湾大主、長女が初代宜野湾ノロだった嘉手苅門中の系祖のキチラセのヒャー (比屋) の管理していた殿と考えられている。宜野湾の集落はまず上村渠 (ウィーンダカリ) から拓けたとされ、このキチラセのヒャー (比屋) の嘉手苅がその草分けの家筋と伝えられている。かつては屋敷内に香炉を二つ安置した茅葺きの建物があり、大正初年に瓦葺きに改築されたが、普天間飛行場建設の際に破壊された。1960年代に子孫が自宅の東側に拝所を設け、コンクリート造りの殿を巫殿内 (ヌンドゥンチ) の後ろ側に再建して火ヌ神と呼ばれている。これはたまたま見つけた。資料にあった写真と照らし合わせて殿とわかった。巫殿内 (ヌンドゥンチ) まで来た時にタイヤがパンクし、隣のアパートの駐車場でチューブ取り替えていたら、塀越しに祠が見えた。こんな偶然もあるのだ。
土帝君 (トゥーティークー)
現在の集落内にある数少ない文化財の一つの土帝君だが、入り口は施錠されており、階段を上がっての見学は出来なかった。屋号 石嶺 (イシンミ) の先祖が、18世紀前半以前に中国の土地の守り神である土地公 (トチコウ) を中国から勧請したと伝わり、集落の守り神の土帝君として、この場所に祀られている。球陽 (1734年) にはこの土帝君を拝んだという記事があるので、かなり古くからあった事がわかる。昭和初期に男神像、沖縄戦で女神像が失われたが、1984年 (昭和59年) に新神像 (写真中) の遷座祭が行われた。旧暦2月2日にはこの場所で土帝君例祭が行われている。写真中は宜野湾字誌に掲載されていたもの。
宜野湾公民館
土帝君の前の広場に公民館が建てられている。
公民館入り口には文化財マップと現在は普天間飛行場に接収されている元々の集落の昭和9年当時の地図が置かれていた。
戦前の村屋 (写真左) は現在の普天間飛行場基地内に置かれ、奉行屋小 (ブジョーヤーグヮ) と呼ばれていた。戦後、この地に公民館 (写真右) を建設した。
闘牛場 (ウシナー) 跡、シマクサラシ御願場所
沖縄国際大学の隣辺りにも、かつては闘牛場 (ウシナー) があった場所 (写真左) だそうだ。ウシナー跡の側が集落の西の端のシマクサラシの御願が行われている場所 (写真右) になる。
マータクドー・闘牛場 (ウシナー) 跡
普天間飛行場に隣接する場所にマータクドーという場所がある。施錠されており中には入れないのだが、闘牛場跡だそうだ。宜野湾は中部地域でも牛オーラセーが一番盛んな地域で、盛んに闘牛が催されており、ここで闘牛を開催していた。ここで牛オーラセーをすると、赤土で北側 (下側) にあった前之井 (メーヌカー、産井 ウブガー) の水が濁るため、適地ではないとして、神山との間にあるミーハギにウシナーを移転し使われなくなったそうだ。現在は、マータクドー・ウシナーはゲートボール場として整備し憩いの場として利用されている。
宜野湾の闘牛場 (ウシナー) は、最初は集落の後方シディガーラという谷底のような所にあったが、ある時、人身事故が起き、1909年 (明治42年) 部落の南のマータクドーの遊び庭 (アシビナー) 跡に移した。ところがこの闘牛場は、前ヌカー (産泉) の上流に当たり、闘牛の際雨が降ると前ヌカーが濁るので、この場所は闘牛場としては適地でない、ということで、1924年 (大正13年) に、集落の北側のミーハギ橋の袂、神山寄りに移転した。ここは宜野湾村の中央部に当たり、並松街道に面して交通の便も良く、観覧席はゆるやかな傾斜を利用して観客収容場所も広く、周囲は琉球松が林立していつでも日陰で闘牛を観賞することができ快適の場所であった。 この闘牛場は宜野湾闘牛場が正式名称だが一般にはミーハ闘牛場と呼ばれていた。 宜野湾村では毎年秋になると原山勝負 (現農業まつり) が開催され、その主会場にこの闘牛場が当てられ、各集落から選抜された名牛が火花を散らしての激突は、観衆を大いに湧かした。また村内闘牛愛好者たちは、自分の愛牛を宜野湾闘牛場に出場させる事が唯一の夢でもあったという。
はらから之塔
闘牛場として使われていたマタクドーの広場に、1968年 (昭和43年) に沖縄戦戦没者の慰霊碑を建立している。 名前は住民から募集し、「お互いに同胞で兄弟姉妹」という意味で、はらから之塔と命名された。塔には、第二次世界大戦での字宜野湾出身戦没者241柱の名前が刻銘されている。(沖縄県 平和の礎調査では353人と報告) 郷友会主催で毎年7月に慰霊祭を行っている。
沖縄戦では集落内の民家や新学校 (ミーガッ コー)、農民道場 (ノーミンドージョー) などに日本軍が駐屯していた。 住民の徴用もあり、子どもたちも労役に駆り出されていた。疎開する住民もいたが、多くの住民は集落に残り、組ごとに割り当てられた自然壕を整備していた。4月1日に米軍が上陸すると、日本軍は浦添の当山方面に移動していき、集落には4月4日には日本兵はいなくなっていた。その頃、集落住民はクマイアブ、国吉の前の洞穴 (クニシヌメーヌガマ)、メーンサクガマ、松川の洞穴 (マチガーヌガマ)、蒲知念小の前の洞穴 (カマーチニングワーのメーヌガマ)、チシヌガマなど集落内の17ヵ所ほどの自然壕に避難していたが、クマイアブでは、入口を米軍に埋められ、酸欠状態になったが、内側から出口を掘り、抜け出して捕虜になっている。殆どは4月15日頃までには捕虜となっている。米軍上陸前、1944年 (昭和19年) の宜野湾の 人口は1,171人で沖縄戦での死者・行方不明者は221人で、約19%にのぼっている。(沖縄県 平和の礎調査で は防衛隊、県外での死者を含めると犠牲者は353人) 他の地域と比べると比較的戦没者が少なくなっている。日本兵が移動して本格的な戦闘がなかった事や避難壕に日本兵がいなかったので投降を阻止しなかった事があるだろう。
沖縄戦が南部で熾烈を極めていた1945 (昭和20年) 6月には、米軍により集落の大半が破壊され、普天間飛行場の敷地として接収され、住民は住む地を奪われてしまった。捕虜となった住民は各地の収容所に送られ、その後、野嵩収容所に移されていた。1947年 (昭和22年) に、 宜野湾の人びとに居住許可が下りたが、元の集落は接収されたままで、やむなく元部落の南、薄倉原 (ウスクラバル) を中心に前田原 (メーダバル)、山川原 (ヤマガーバル) の耕地に宅地を造成し、ここに新集落を築き生活を始めている。この場所が現在の宜野湾集落にあたる。
普天間飛行場に隣接しているため、米軍による事件、事故が多く発生しており、2003 (平成15年) 8月13日、 沖縄国際大学敷地内に米軍海兵隊所属のCH53ヘリコプターが墜落炎上し、近隣の民家も被害を受けたことは記 憶に新しい。
この事件以前にも、戦闘機の落下事故や、爆発事故などが起きていた。
クマイアブ
マータクドーの脇にクマイアブがある。全長123mにもなる洞窟で、屋号 前仲地 (メーナカチ) の畑にあるので、メーナカチヌガマとも呼ばれていた。 ガマの下には大きな池があるという。 ここは、神女らが籠って禊をしたことから“クマイ”アブと呼ばれるようになったそうだ。明治時代半ばまでは、宜野湾ノロを始め神職の人たちが拝んでいた。神女たちが夜籠りして、ウムイ (神歌) を唱えた所だという。
沖縄戦当時、この洞窟には60~80名が避難していた。(一時期は200人程避難していた) 米軍がブルトーザーで壕の入口が塞がれ、避難していた人たちは暗闇の中で手探りで入口の土を掘り空気孔を空けたが、もはやこれまでと考え、白い布切れを手に壕を出て米軍に投降した。日本兵がいなかったのだろう。もしいたとすれば、投降は出来なかったかも知れない。この様に日本兵が入りかいないかで住民のの運命の明暗を分けている。殆どの人が投降したのだが、若者が3人は投降せずに壕に残り、南部に逃走したが助からなかったという。壕の入り口には香炉が置かれているが、これはこの壕で助かった人達が後にガマへの感謝を表して置いたものだそうだ。
シマクサラシ御願場所
これまで六ヶ所あるシマクサラシの場所の三つをみたが、残りの三つも訪れた。集落の東側、国道330号線沿いにある。集落の南端のシマクサラシの場所は国道330号線から集落に入る坂道を登ったところにあった。
国道330号線を北に進んだ長田交差点が東の端のシマクサラシの場所。
更に北に行った所が集落の北東の境だった場所で、これで六つのシマクサラシの最後の場所になる。
宜野湾集落の文化財の殆どは普天間飛行場の中にあり、見る事ができなかったが、基地が返還されれば、自由に見る事が出来るだろうが、それはまだまだ先の話だ。普天間飛行場は返還は決まっているにだが、代替地の辺野古がどうなるか、また日本ではコントロールできない米軍の移設計画準備などもあり、不透明だ。宜野湾市では跡地利用計画を進めてはいるが、公表されている計画書はまだまだ初期段階の様に見える。基地内には多くの手付かずの遺跡もあり、開発前には発掘調査が行われる。また地権者との合意も必要で、開発終了まではあと20年かかるのではと思う。諸問題は山積してはいるのだが、戦後の動乱期、米軍基地への接収でまともな都市計画が出来ず無秩序な発展をした沖縄だが、広大な土地が返還されれば、今度こそまともな都市計画ができるだろう。沖縄には中部北部にはまだまだ米軍基地が存在し、返還されれば更に発展すると思われる。ただ、これは大きなビジネスチャンスでもあり、政府、行政、民間会社、地権者の利権が複雑に絡み合っており、健全な形では進まないのではと推測される。とは言え、20年後、30年後の沖縄の未来は明るいことは確かだろう。
宜野湾集落から長田集落へ移動する。長田集落の訪問記は別途。
参考文献
- 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
- ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
- 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
- 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
- ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)
- ぎのわん (1988 字宜野湾郷友会)
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