Okinawa 沖縄 #2 Day 175 (25/03/22) 旧浦添間切 (13) Nakanishi Hamlet 仲西集落

旧浦添間切 仲西集落 (なかにし)

  • 旧仲西集落跡 (キャンプ・キンザー)
  • 仲西公民館
  • 仲西の獅子舞
  • 仲西小学校跡
  • おもろの碑
  • 三つの殿の祠 (サフシン之殿、外間之殿、崎山之殿)
  • ノロ殿内
  • 殿小跡 (トゥングヮー)
  • 仲西井 (ガー)
  • 御願森 (ウガンムイ、ゲライ森)
  • 獅子 (シーサー) 屋 (未訪問)
  • 戦没之塔
  • ノロ墓
  • 黄金 (クガニ) 森
  • 山之下井 (ヤマヌシチャガー)
  • 仲西樋川 (ヒージャー)


今日は先日見落としていた宮城集落の残りの文化財を巡り、その後、仲西集落と小湾集落を巡る。ここでは仲西集落を巡った文化財を記載しておく。



旧浦添間切 仲西集落 (なかにし)

仲西部落は北に宮城、南に勢理客に隣接している。 戦前の戸数は、60戸と浦添では小さな村落だった。字仲西村はソミザ原、西原、外間門原、仲西原、前原の五つの小字からなっている。 17世紀初頭頃の仲西村は、宮城集落、小湾集落一帯を含めた地域であったといわれている。球場には「仲西村は 小湾川流水の沖する (高くのぼる) 所に当る。 料るに必ず風水善からず、古くより生産多からず、 且つ井戸は遠処にあって、甚だ不便に属す夫れ。 外間原の地方は、首里、那覇に近く、井戸近所に あって風水善し、故に基請う所を推してこれを、外間原に遷す」とあり、今からおよそ200年前の仲西村は、現在の佐久川前橋付近の仲西側流域の低地に位置していたという。戦前の仲西部落は、仲西川 (小湾川上流) の山手の仲西原にあったのが、先に外間門原に移った仲西村は、その後、何らかの理由によって、元の仲西原の旧地に移動したのではないかという。 旧県道の東側にあった旧仲西小学校の敷地が、仲西川べりの海抜20mの小高い丘で黄金森といわれ、御嶽や拝泉、殿などが残っており、仲西村の発祥地と考えられている。仲西には、ゲライ森、サフシン之殿、外殿山之殿 (不明)、殿小、仲地/比屋拝所 (不明)、 根所 (不明)、ノロ殿内、地頭火神 (不明)、仲西井泉、山之下井泉、シーサ屋 (不明) などの文化財がある。
字仲西の人口は明治期には旧浦添村のなかでは最も少なく、60戸、230人程だった。戦前まではこの状況はほとんど変わらなかった。戦後、本土復帰までは人口は急増して、2000人程になった。これはおそらく、村の半分が接種された米軍基地での仕事を求めてた地域から多くの人が流入したことによると思われる。本土復帰後は、米軍基地内の仕事が減ったことにより、人口が少し減っている。

1980年代に神森団地が建設され、再度人口は増え始めたが、ここ数年は人口減少傾向になっている。2021年末現在の人口は4000人程で、明治期に比べ17倍にも膨れている。この内神森団地人口は28%を占めている。

人口の伸び率も旧浦添村の平均を上回っている。

集落変遷を見ると、沖縄戦で村が接種されたことにより、集落の位置は全く変わっている。本土復帰までは村の御嶽や殿があった場所の周りに民家が広がっているが、それ以降はその聖域も宅地化が進み、南の神森団地周辺も民家がぎっしりと建てられ、基地以外のほぼ全域が住宅地となっている。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: ゲライ森 (神名トヨミオラノ御イベ)
  • 殿: サフシン之殿外間之殿崎山之殿、 仲地之殿 (所在地不明)、仲村渠之殿 (所在地不明)


仲西集落で行われていた祭祀は以下の通り、現在でも村として行われているものは太字の四つのみになっている。

この仲西集落に常駐していた仲西ノロによって祭祀は執り行われていた。


仲西集落訪問ログ




旧仲西集落跡 (キャンプ・キンザー)

仲西集落の北側を走る国道58号線 (軍道1号線)   の向こうはキャンプ・キンザーなのだが、その一部が戦前に仲西集落があった場所にあたる。その集落が、沖縄戦後、米軍に接収された事で、現在の集落の場所に移住してきて現在に至っている。集落の歴史を見ると何度か移住を繰り返している。現在の集落の場所は昔集落が置かれていた場所で、つまり戦後、畑地となっていた元の集落地に戻り、もう一度村を形成したという事だ。キャンプ・キンザーの集落にはと記録がある。資料は集落の返還については、はっきりと判るような記述になっていないのだが、何度も読み直すと、集落はまずは集落の崖下の小湾川辺りに始まり、崖上の現在の集落の西側の仲西原に移住して、1767年 (14代尚穆王の時代) に外間門原 (ホカマジョーバル) 移っている。外間門原には約400坪の外間子屋敷があったと伝わる。この移住の際には、元々の集落にあった御嶽、殿などの拝所は移さなかったので殆どの拝所はキャンプ・キンザー内には無く、現在の集落地域に残っている。理由は不明だが、その後、元の中西原に戻ったという。沖縄戦で集落の居住地は接収され、仲西原の畑となっていた土地に集落を移した。仲西原の南側にあった御嶽や拝所は接収を免れている。

仲西公民館

公民館がある場所は、戦前は殿が置かれていた森だった。戦後、集落が米軍に接収されたため、居住地をこのあたりに移し、村屋もこの地に移している。公民館の前庭には酸素ボンベを半分に切った鐘が吊るされている。

仲西の獅子舞

公民館の入り口に獅子舞の案内板が置かれている。仲間集落では毎年8月15日に十五夜祭が行われていた。この祭りでは外間家に集合し、獅子御願を行い、外間家の一画にあった赤瓦の獅子屋 (シーシーヤー) から獅子を取り出し、道ジュネ―が始まり村屋まで練り歩く。村屋に着き、十五夜祭が始まる。戦前、十五夜祭では獅子舞や踊り、狂言などが披露されていたが、戦争で中断し、戦後は獅子舞だけが行われている。この獅子舞で使う獅子頭は戦争で焼失し、現在の獅子頭は戦後復元されたもの。仲西集落にはこのほか6月25日には綱引きや7月15日に相撲が行われるのが恒例だったが、現在は絶えてしまった。


仲西小学校跡

公民館の敷地内に仲西小学校跡碑が置かれていた。一見、この地に小学校があった様に見えるが、調べるとここでは無く、公民館の南側、この後訪れるノロ殿内、殿小跡を境に南側、ゲライ森のあたりだった。仲西小学校は明治28年、浦添尋常小学校の分校として設置され、その後明治35年、仲西尋常小学校となった。当時、国頭街道(現 国道58号線)の西に仲西集落、東に校地が広がり、街道沿いに極めて目立つ建物であったと云われる。昭和16年、国民学校令により仲西国民学校と改称。昭和20年の沖縄戦で校舎は倒壊した。昭和21年、同校は仲西初等学校と改称され、安波茶の仮校舎にて授業を再開。昭和24年、同校は校地を屋富祖高地の西面へ移し、仲西の学校跡地を住民へ払い下げられた。

おもろの碑

ここにも1531年から1623年にかけて王府がおもろを記録した「おもろさうし」からこの仲西に関わるうたの碑が置かれていた。仲西のすぐれた真人と尊称されるにくげ按司が、朝に夕に、鈴富という名の船をあやつって、干瀬の多い難所 (伊那武・自謝嘉は那覇港の北西にある干瀬 [リーフ] のこと) をたくみに航海する情景をほめたたえたおもろ。

ここで詠われた仲西按司がいつ頃の人物かは特定できていないのだが、三山時代に、この地を治めた人物と考えられている。「はゑ」という称号まで賜っているので、かなりの人物と考えられる。三山時代というと英祖から察度の時代となるだろう。仲西按司は中山国王に仕え、船を巧みに操縦し、明や朝鮮と貿易を行い中山国に大いに貢献したと思われる。「おもろ」に詠われるほどの人物だったと考えられる。


巻一五の九
 一 つるこ にくげ あぢはゑ
     きよらや ほこら
 又 よかる にくげ
 又 中にしの ゑらびま人
 又 あさどれに 世どれに
 又 すづとみは はやとみは
 又 ゑなんわたて ぢいだかわたて


 つるこにくげ按司栄え
                美しく誇らん
 よかる にくげ (按司栄え)
 仲西の すぐれた真人
 朝凪れに 夕凪れに
 鈴富は 早富は
 伊那武を渡って 自謝嘉を渡って


三つの殿の祠 (サフシン之殿、外間之殿、崎山之殿)

仲西集落には5つの殿が琉球国由来記に記されている。この内、サフシン之殿、外間之殿、崎山之殿はこの公民館が建っている場所にあった森の中にあったとされる。この三つの殿は同じ敷地内にあったが、それぞれは離れたところに独立していた。資料に当時の三つの殿の様子が描かれていた。

それを公民館敷地の一画に祠を建て、その中に火の神の霊石を安置し合祀している。祠の隣には大石が置かれている。これは別の場所にあった殿小 (トゥングヮー) を移したもの。又、民俗地図ではこの場所に地頭火ヌ神もあるとしていた。祠にこの地頭火ヌ神も祀られていいるのかも知れない。


ノロ殿内

公民館のすぐ西側、部落内を縦断する道の中途に村立てを行った外間子 (ホカマシー) の子孫にあたる外間門中の元屋のノロ殿内の屋敷跡がある。この家が仲西集落の国元 (クニムトゥ) にあたる。

殿小跡 (トゥングヮー)

ノロ殿内の国道58号線側にはかつて、殿 (トゥン) があった場所になる。今は民家が建っているが、戦前は畑で、その中にポツンと殿小跡 (トゥングヮー) があったそうだ。この殿小は先殆ど訪れた公民館内の祠の隣にあった拝所だが、この殿小 (トゥングヮー) は昭和5~6年に仲西国民学校 (現在の公民館) 敷地内に移された。仲西集落内にあった五つの殿の内所在地が不明となっている仲村渠之殿 (ナカンダカリヌトゥン) ではないかとも考えられている。ウマチーの際には、三殿で拝礼の後にこの殿小で祭りを催したという。

仲西井 (ガー)

仲西集落の北東側に仲西ガーがある。水量が豊富で、旱魃時には隣の宮城部落からも水を汲みに来たという。産水、若水を汲んだ産井 (ウブガー) でもあった。給水パイプが設置され、井戸の中には水が溜まっているので、現在でも使われている様だ。この井戸の前方はノロ地だったそうだ。

御願森 (ウガンムイ、ゲライ森)

仲西集落は標高20mの丘の上に広がっている。集落内の公民館の南、 小湾川よりの石灰岩丘陵地一帯が集落の聖域だった。この丘の崖上が集落の御嶽があった場所で、琉球国由来記にあるゲライ森 (神名トヨミオラノ御イベ) と考えられている。現在は御願森 (ウガンムイ) といっている。この崖上は仲西小学校があった場所で、この丘は学校山とも呼ばれていた。
かつては樹林がおい茂り、その樹林中にイビが祀られていたという。現在は広場になっている。拝所は崖崩れの恐れがあるので前方の安全な場所に移されている。祠の中には五つの香炉が置かれている。向かって左から、火ヌ神、にし、うし、うま、とりと書かれている。にし、うし、うま、とりと書かれた香炉は初めて見た。何故12ある干支の内、四つなのか? 干支にはにしは無いので干支では無いのか?などの疑問が湧くのだが、これは沖縄の干支方位神で村の東西南北を守る神を祀っている。それで四つあるわけだ。「にし、うし、うま、とり」は大和風に翻訳したもので、沖縄オリジナルでは北の方位をニーヌファ (子の端)、東の方位をウーヌファ (卯の端)、南の方位ンマヌファ (午の端)、西の方位をトゥイヌファ (酉の端)となる。にし=ニー、うし=ウー、うま=ンマ、とり=トゥイ となり、これで疑問は解けた。幾つかの集落でこの干支方位神を見かける。風水 (フーシン) と呼んでいる集落もあるが、いずれも村の四隅に据えて、村を邪気から守る役目を負っていた。この仲西集落でも四隅に置かれていたのかもしれない。(資料ではこの拝所についての記述は無かった。)

獅子 (シーサー) 屋 (未訪問)

資料によると、この丘の上にシーサー (獅子) をおさめる小屋と根屋があるとなっていた。丘の崖の上を隅から隅まで探したが見つからなかった。先ほどの祠が根屋なのかもしれない。資料が40年前のものなので、それから随分と変わってはいるだろう。今でも祭りで使われている獅子頭は別のところに保管しているのかも知れない。

戦没之塔

祠の隣には沖縄戦の犠牲者の慰霊碑が置かれている。初代の碑は昭和37年に建立され、その後、平成15年に現在の碑に改修されている。戦没之塔の前面のプレートには108の戦没者名が刻まれ弔われている。
沖縄線で米軍と日本軍の戦線が仲西附近へ到達したのは、昭和20年4月29日だった。独立歩兵第21大隊 (石4282) 主力を蹂躙した敵歩戦連合軍は、独立歩兵第15大隊 (石3596) 第4中隊 第1小隊の布陣する沖縄南飛行場の南端附近に姿を現わし、米軍は地上軍の侵攻に先立ち、砲撃により日本守備軍の地雷原を破壊、更に地雷探査を行いながら、歩兵を随伴して迫って来た。仲西国民学校の校舎、その残骸が望める優位に布陣した小隊だが、迎える将兵は僅か8名だった。仲西集落も他の集落と同様、戦火に叩かれ、戦線の過ぎ去った後に住戸など残ってはいなかったという。
戦没之塔で慰霊しているのは108柱となっているが、別の資料では40名となっており、この数字であれば浦添市の中ではこの仲西集落の戦没者の割合は最も少なく抑えられ19%となっている。他の集落では30%以上なので、住民が早くから疎開していたのかもしれない。この戦没者の数は資料によって違いがある。沖縄戦だけでなく日清戦争からの戦死者を含めている慰霊碑もあるし、住民登録があったものに限定しているもの、軍関係を除いたもの。ただ19%とはいえ、5人に一人は無くなっているので決して少ない数ではない。慰霊碑の108名の戦没者の刻印を見ると、家族ごとにまとめているようで、こちらの方が正しいような印象を待った。

ノロ墓

御願森 (ウガンムイ、ゲライ森) の崖下、仲西橋の北側には、2500年から3000年前の古代人の住居跡と思われる仲西貝塚が見つかっている。崖の斜面には清 (ちゅら) ガマと呼ばれた洞窟もあり、古代人の住居と考えられている。現在は塞がれてしまった。

崖下に掘り込み墓が二つある。 向かって左側は仲西野呂 (ノロ) 之墓、右側は仲西世代墓と書かれている。この墓は、戦後、軍用地内にあったのをこの地に移したものだそうだ。

仲間ノロについては伝承がある。このノロ墓に葬られているノロとは別の人物だが、琉球王統時代にノロ殿内 (外間門中宗家) の娘の清祝女小 (チュラヌールグヮ) で王府から仲間ノロに任命され、絶世の美女だったという。多くの男たちが何とか情を交えたいといい寄ったが、ことごとく拒絶された。男たちは、この清祝女小 (チュラヌールグヮ) への復讐をして落とし入れようとした。一人の男が清祝女小の通り道に、男根を出して寝たふりをしていた。通りかかった清祝女小はこれを見て、他の通行人の目に触れないようにと着物の袖でその一物を男の着物の中に押し込んだ。男はこの事を言いふらし、役所の知ることになった。当時はノロは純潔を求められており、この行為が問題となり、水も食べ物もない慶伊瀬島 (那覇から北西12km) に島流しとなった。その後は亡くなったのか、助け出されたのか定かではない。


黄金 (クガニ) 森

ノロ墓の近く、御願森 (ウガンムイ、ゲライ森) の崖下にも拝所がある。黄金 (クガニ) 森と呼ばれている拝所で、村立てを行った外間子 (ホカマシー) の墓がある。その隣はトウシーと書かれている。当世 (トーシー) の事だと思う。当世墓は現在使われている墓のこと。もともとの墓は崖斜面の洞窟内にあったが、ここに拝所として移している。外間子 (ホカマシー) がいつ頃存在した人物かは、はっきりしないのだが、グスク時代ではないかと考えられている。また、外間子は甲冑を身に着けていたと伝わり、墓には甲冑の副葬品があったという。本土からの平家の落ち武者ではないかともいわれている。墓の副葬品の兜は金がちりばめられて光っていたというので、ここを 黄金 (クガニ) 森と呼ぶようになったそうだ。

山之下井 (ヤマヌシチャガー)

黄金 (クガニ) 森の拝所を囲んでいる高いコンクリートブロックの向こうに井戸跡がある。クガニ森から直接には行けず、一度、川まで出て、民家の間にある極細の通路を先ほどのノロ墓に向かって進んだ奥に広場があり、そこには井戸拝所がある。山の下の井戸ということで山之下井 (ヤマヌシチャガー)と呼ばれている。この山之下井 (ヤマヌシチャガー) は古老の話では800年も前からあったとされ、旱魃でも水は枯れず、他の集落からも水を汲みに来たと伝わる。それで集落住民からは、ありがたい井戸として拝まれていた。確かに井戸拝所としては、格別な大きな祠が建てられている。明治時代後期までは雨乞の儀式の際には仲西井 (ガー) を拝した後はここを拝み、御願森で御願を行っていたそうだ。資料を読んでいると、どうも仲西集落はこの辺りから始まったようだ。


仲西樋川 (ヒージャー)

山之下井 (ヤマヌシチャガー) の前を流れている小湾川を河口方面に進み、勢理客橋を渡った所にコンクリートの祠らしきものがある。よく見ると屋根の上には賽銭が置かれているので拝所であることは確かだろう。後で調べると、ここは仲西樋川 (ヒージャー) と呼ばれる井戸があった場所だそうだ。樋川と言うので樋から水が流れ出していた筈で、駐車場になっているあたりが、水溜め場だったように思える。昔はこの樋川の水で水撫で (ミジナディー) を行っていたという。




仲西集落巡りを終えて、次は小湾集落に移動する。小湾集落訪問記は別途。



参考文献

  • 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第3巻 資料編 2 民話・芸能・美術・工芸 (1982 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第4巻 資料編 3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第5巻 資料編 4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
  • うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)
  • 仲西村の沿革誌 (1989 外間太和)

0コメント

  • 1000 / 1000