Okinawa 沖縄 #2 Day 175 (25/03/22) 旧浦添間切 (13) Nakanishi Hamlet 仲西集落
旧浦添間切 仲西集落 (なかにし)
- 旧仲西集落跡 (キャンプ・キンザー)
- 仲西公民館
- 仲西の獅子舞
- 仲西小学校跡
- おもろの碑
- 三つの殿の祠 (サフシン之殿、外間之殿、崎山之殿)
- ノロ殿内
- 殿小跡 (トゥングヮー)
- 仲西井 (ガー)
- 御願森 (ウガンムイ、ゲライ森)
- 獅子 (シーサー) 屋 (未訪問)
- 戦没之塔
- ノロ墓
- 黄金 (クガニ) 森
- 山之下井 (ヤマヌシチャガー)
- 仲西樋川 (ヒージャー)
今日は先日見落としていた宮城集落の残りの文化財を巡り、その後、仲西集落と小湾集落を巡る。ここでは仲西集落を巡った文化財を記載しておく。
旧浦添間切 仲西集落 (なかにし)
1980年代に神森団地が建設され、再度人口は増え始めたが、ここ数年は人口減少傾向になっている。2021年末現在の人口は4000人程で、明治期に比べ17倍にも膨れている。この内神森団地人口は28%を占めている。
人口の伸び率も旧浦添村の平均を上回っている。
集落変遷を見ると、沖縄戦で村が接種されたことにより、集落の位置は全く変わっている。本土復帰までは村の御嶽や殿があった場所の周りに民家が広がっているが、それ以降はその聖域も宅地化が進み、南の神森団地周辺も民家がぎっしりと建てられ、基地以外のほぼ全域が住宅地となっている。
琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: ゲライ森 (神名トヨミオラノ御イベ)
- 殿: サフシン之殿、 外間之殿、崎山之殿、 仲地之殿 (所在地不明)、仲村渠之殿 (所在地不明)
仲西集落で行われていた祭祀は以下の通り、現在でも村として行われているものは太字の四つのみになっている。
この仲西集落に常駐していた仲西ノロによって祭祀は執り行われていた。
仲西集落訪問ログ
旧仲西集落跡 (キャンプ・キンザー)
仲西公民館
仲西の獅子舞
公民館の入り口に獅子舞の案内板が置かれている。仲間集落では毎年8月15日に十五夜祭が行われていた。この祭りでは外間家に集合し、獅子御願を行い、外間家の一画にあった赤瓦の獅子屋 (シーシーヤー) から獅子を取り出し、道ジュネ―が始まり村屋まで練り歩く。村屋に着き、十五夜祭が始まる。戦前、十五夜祭では獅子舞や踊り、狂言などが披露されていたが、戦争で中断し、戦後は獅子舞だけが行われている。この獅子舞で使う獅子頭は戦争で焼失し、現在の獅子頭は戦後復元されたもの。仲西集落にはこのほか6月25日には綱引きや7月15日に相撲が行われるのが恒例だったが、現在は絶えてしまった。
仲西小学校跡
おもろの碑
ここで詠われた仲西按司がいつ頃の人物かは特定できていないのだが、三山時代に、この地を治めた人物と考えられている。「はゑ」という称号まで賜っているので、かなりの人物と考えられる。三山時代というと英祖から察度の時代となるだろう。仲西按司は中山国王に仕え、船を巧みに操縦し、明や朝鮮と貿易を行い中山国に大いに貢献したと思われる。「おもろ」に詠われるほどの人物だったと考えられる。
巻一五の九
一 つるこ にくげ あぢはゑ
きよらや ほこら
又 よかる にくげ
又 中にしの ゑらびま人
又 あさどれに 世どれに
又 すづとみは はやとみは
又 ゑなんわたて ぢいだかわたて
つるこにくげ按司栄え
美しく誇らん
よかる にくげ (按司栄え)
仲西の すぐれた真人
朝凪れに 夕凪れに
鈴富は 早富は
伊那武を渡って 自謝嘉を渡って
三つの殿の祠 (サフシン之殿、外間之殿、崎山之殿)
それを公民館敷地の一画に祠を建て、その中に火の神の霊石を安置し合祀している。祠の隣には大石が置かれている。これは別の場所にあった殿小 (トゥングヮー) を移したもの。又、民俗地図ではこの場所に地頭火ヌ神もあるとしていた。祠にこの地頭火ヌ神も祀られていいるのかも知れない。
ノロ殿内
殿小跡 (トゥングヮー)
仲西井 (ガー)
御願森 (ウガンムイ、ゲライ森)
獅子 (シーサー) 屋 (未訪問)
戦没之塔
ノロ墓
崖下に掘り込み墓が二つある。 向かって左側は仲西野呂 (ノロ) 之墓、右側は仲西世代墓と書かれている。この墓は、戦後、軍用地内にあったのをこの地に移したものだそうだ。
仲間ノロについては伝承がある。このノロ墓に葬られているノロとは別の人物だが、琉球王統時代にノロ殿内 (外間門中宗家) の娘の清祝女小 (チュラヌールグヮ) で王府から仲間ノロに任命され、絶世の美女だったという。多くの男たちが何とか情を交えたいといい寄ったが、ことごとく拒絶された。男たちは、この清祝女小 (チュラヌールグヮ) への復讐をして落とし入れようとした。一人の男が清祝女小の通り道に、男根を出して寝たふりをしていた。通りかかった清祝女小はこれを見て、他の通行人の目に触れないようにと着物の袖でその一物を男の着物の中に押し込んだ。男はこの事を言いふらし、役所の知ることになった。当時はノロは純潔を求められており、この行為が問題となり、水も食べ物もない慶伊瀬島 (那覇から北西12km) に島流しとなった。その後は亡くなったのか、助け出されたのか定かではない。
黄金 (クガニ) 森
山之下井 (ヤマヌシチャガー)
黄金 (クガニ) 森の拝所を囲んでいる高いコンクリートブロックの向こうに井戸跡がある。クガニ森から直接には行けず、一度、川まで出て、民家の間にある極細の通路を先ほどのノロ墓に向かって進んだ奥に広場があり、そこには井戸拝所がある。山の下の井戸ということで山之下井 (ヤマヌシチャガー)と呼ばれている。この山之下井 (ヤマヌシチャガー) は古老の話では800年も前からあったとされ、旱魃でも水は枯れず、他の集落からも水を汲みに来たと伝わる。それで集落住民からは、ありがたい井戸として拝まれていた。確かに井戸拝所としては、格別な大きな祠が建てられている。明治時代後期までは雨乞の儀式の際には仲西井 (ガー) を拝した後はここを拝み、御願森で御願を行っていたそうだ。資料を読んでいると、どうも仲西集落はこの辺りから始まったようだ。
仲西樋川 (ヒージャー)
山之下井 (ヤマヌシチャガー) の前を流れている小湾川を河口方面に進み、勢理客橋を渡った所にコンクリートの祠らしきものがある。よく見ると屋根の上には賽銭が置かれているので拝所であることは確かだろう。後で調べると、ここは仲西樋川 (ヒージャー) と呼ばれる井戸があった場所だそうだ。樋川と言うので樋から水が流れ出していた筈で、駐車場になっているあたりが、水溜め場だったように思える。昔はこの樋川の水で水撫で (ミジナディー) を行っていたという。
参考文献
- 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第3巻 資料編 2 民話・芸能・美術・工芸 (1982 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第4巻 資料編 3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第5巻 資料編 4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
- うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)
- 仲西村の沿革誌 (1989 外間太和)
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