Okinawa 沖縄 #2 Day 129 (01/09/21) 旧喜屋武 (4) Uesato Hamlet 上里集落
旧喜屋武村 上里集落 (うえさと、ウィーザトゥ)
- 豊井泉 (ユタカガー) ③
- 産井泉 (ンブガー) ② [9月4日訪問]
- 神井泉 (カミガー) ④
- 製糖小屋 (サーターヤー) 跡
- 上里公民館 (サーターヤー跡)
- 公民館隣のアジシー ➓
- 公民館南方のアジシー / アガリン壕 ⓫
- 謝名 (ジャナ) の屋敷跡 ❽
- チブラー山 (ヤマ) ❾
- 夫婦井泉 (ミートゥガー) ①
- 遊び毛 (アシビモー) 1⃣
- 村元 (ムラムトゥ) ❻
- 村屋 (ムラヤー) 跡
- 新屋 (ミーヤ) ❺
- 上良小 (ワーラグワー) の神屋 ❼
- 上江 (ウィー) の神屋 ❸ / アサゲ ❹
- 上村渠 (ウィンダカリ) ❷
- 上里 (ウィー) グスク / 山城 (ヤマグスク) グスク
- ホーヤー岩 (ブリ) ⓬
- 荒崎 (アラサチ) 海岸
- ひめゆり学徒散華の跡
- 荒崎岬
- カサカンジャー
旧喜屋武村 上里集落 (うえさと、ウィーザトゥ)
上里集落訪問ログ
豊井泉 (ユタカガー) ③
産井泉 (ンブガー) ② [9月4日訪問]
神井泉 (カミガー) ④
製糖小屋 (サーターヤー) 跡
上里公民館公民 (サーターヤー跡)
公民館隣のアジシー ➓
公民館南方のアジシー / アガリン壕 ⓫
謝名 (ジャナ) の屋敷跡 ❽
チブラー山 (ヤマ) ❾
夫婦井泉 (ミートゥガー) ①
遊び毛 (アシビモー) 1⃣ / 村元 (ムラムトゥ) ❻
村屋 (ムラヤー) 跡
新屋 (ミーヤ) ❺
上良小 (ワーラグワー) の神屋 ❼
上江 (ウィー) の神屋 ❸ / アサゲ ❹
上村渠 (ウィンダカリ) ❷
上里 (ウィー) グスク / 山城 (ヤマグスク) グスク
少し年月がさかのぼるが、同じ「李朝実録」に1394年に中山王の察度が「逃亡中の山南王子である承察度を引き渡すように依頼してきた」とある。引き渡しがされたのかどうかは記録にはない。さらに、これより二年後の1396年には、山南王 承察度が使者や官生を中国に派遣しているとの記録がある。この資料から、承察度は琉球に戻り南山王になったとも考えられている。
以上の事から、色々な仮説が議論されている。色々な文献を読んでみると、どれも説得力があまりないように思えた。その中で、個人的には次のようなシナリオではなかったかと思える。
- 先代の南山王の承察度が1393年に死去した後、南山王の後継者争いが起こる。世子である承察度王子と死去した父親の承察度 (長男) の弟 (四男) である上大里按司 (温沙道) が王位を争い、承察度王子は敗れて、朝鮮に亡命し、上大里按司 (温砂道) が南山王に就く。
- 1394年、中山王の察度が李氏朝鮮国王の李成桂に承察度王子の引き渡しを依頼し、承察度王子は琉球に帰国し、察度の後ろ盾で南山王となる。この時に南山王であった上大里按司 (温沙道) は中山王と当時南山の東半分で勢力を伸ばしていた汪英紫に対抗できず、上里に逃走し、そこで上里グスクを整備して再起に向け喜屋武で体制を立て直す。ここを治めたと言われる上里按司は温沙道と同一人物と考えられている。南山に対しての防備ラインとして、束辺名グスク、當間グスク、佐慶グスクを再構築した。
- 一方、南山国で新たに即位した承察度王子 (承察度) は中山の傀儡政権で基盤が弱く、温沙道とも緊張関係にあり不安定な状況。そうこうするうち、承察度王子 (承察度) の後ろ盾であった中山王 察度が1395年に死去し、武寧王に引き継がれる。この政治的な混乱期に、汪英紫は南山国重臣を取り込み、一気に南山全体を支配下に置く行動に出る。1398年に武寧との連合軍で、温沙道の喜屋武軍を打ち破り、温沙道は朝鮮に亡命。南山王の承察度王子 (承察度) を追放し、南山国の実質的な支配者になった。
当時の琉球を知る一つの情報は明と朝鮮の文献があるが、琉球が明と朝鮮への朝貢の状況がわかる。朝貢がある年は、国王がいた可能性が高く。朝貢がない時期は何かの理由でその余裕がないか、それを阻害する何かがあったと考えられる。先代の承察度が1393年に亡くなった後も、南山国として1394年と1396年の明への朝貢が行われている。南山王が承察度として行ったものと考えられる。とすれば、1394年は温沙道、1396年は承察度王子 (承察度) が派遣したのではないだろうか?興味深いのは洪武帝後期は南山王としての朝貢よりも王叔として汪英紫による朝貢の方が多くなっている。この時期の南山王の力が衰え、汪英紫が台頭してきているのがわかる。1398年から数年間は朝貢の空白時期が見えてくる。明の洪武帝の後を継いだ建文帝の時代は後継者争いで、建文帝と次の皇帝となった永楽帝の争いの靖難の役 (1399年 – 1402年) で明国内が混乱をしていた時代で、朝貢を受け入れるどころではなかった。ちょうどこの時期は南山国も後継ぎ問題で混乱期でもあった。1398年は承察度王子 (承察度) の追放、温沙道亡命の年で、南山国が最も混乱していた年だろう。中山はこの年にも朝貢しているが、南山は混乱で朝貢の余裕がなかったのではないだろうか?
この時代は本土では足利義満の時代で文献も本土でも少なく、ましてや琉球の文献は僅かしかない。それで、確かなことは判らず、色々な系図が考えられている。沖縄の歴史として一般的に教えられているのは、シンプルなもので、南山は承察度ー汪応祖ー他魯毎の三代の王国か、承察度と汪応祖の間にもう一人の承察度か汪英紫を入れて四代の王国だったとかだ。温沙道は1393年に朝鮮に亡命した承察度王子と同一人物とする説もある。これには個人的に疑問がある。1393年と1398年の二度にわたって亡命の理由が不明確で、単に承察度と温沙道の読みが告示しているので同一人物の当て字が変わっただけとする安易な説と思える。承察度にしても温沙道にしても、琉球では名前ではなく敬称とか役職で呼ぶことが多く、それを聞いた明や朝鮮の人がその音に近い感じを当てただけと思われる。別人でも何代にもわたって同じ役職名で呼ばれることが普通だ。
「琉球王国の真実」には異なった系図が載っていた。これが史実に一番近いように思える。
上里グスクは崖上の3つの郭からなり、その崖下にある山城グスクは、調査の結果、この二つのグスクは一体化した大規模なグスクと判明している。地元では上里グスクを上 (ウィー) グスク、山城グスクを下 (シチャ) グスクと呼んでいる。上里グスクは崖上を利用しながら琉球石灰岩の自然石を巧みに積み上げて築かれており、山城グスクのグスクは断層活動によってできた石灰岩の巨石群を上手く利用しながら築かれている。温沙道の居城と考えられており、温沙道の重臣だった上江 (ウィー)、 謝名 (ジャナ) などの子孫の門中が御嶽 (ウタキ) として拝んでおり、イビや各門中の殿 (トゥン) など、 複数の拝所がグスク内に点在しているそうだ。
ホーヤー岩 (ブリ) ⓬
荒崎 (アラサチ) 海岸
ひめゆり学徒散華の跡
荒崎岬
カサカンジャー
参考文献
- 糸満市の歴史と民俗を歩く 旧喜屋武村集落ガイドマップ (2021 糸満市教育委員会)
- 沖縄県立博物館紀要 第24号 1-28, 沖縄南部旧喜屋武間切のグスク群について (1998 當眞嗣一)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- 琉球王国の真実 : 琉球三山戦国時代の謎を解く (2013 伊敷賢著)
- 割據時代の琉球 十四世紀七十年代から十五世紀 (2005 孫薇)
- 沖縄「韓国レポート」(宮里一夫)
- 考古学からみた琉球史(上)―古琉球世界の形成―
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